令和6年9月21日
お客様、ありがとうございます。
どんな人間にでも「我」はあるの。人間の本性なの。その我は気ままやから、知恵で押さえるの。
教育のない者ほど気ままで我が強いの。我ばかり通していたら、平和はないの。強いやつが弱い者を食いよるの。我の強い者は、滋養にならんから、牛もくわないかん、魚も摂らないかんというの。そんなことあらへんの。野菜食うても生きられるの。粗末な生活していても生きていられるの。人間ほど怖いやつはあらへんの。狸でも狐でも昼、姿を見せたら、捕まって皮を剥かれるから皆逃げるの。人間と畜生との間で、向こうが弱いために一生苦しみよる。昔やったら、百姓が米つくって、それを殿様が皆取ってしまいよる。百姓は、稗食ったらいいのと言う。そういう差別の社会が、人間の難儀な世界やの。それは我が働くの。宗教の知恵があったら可哀想やなと我を抑えて、まあまあ堪忍してやれというの。例えば、彼岸になったら信心の家は、彼岸の供養にシジミ一升川へ流してやる。彼岸の中日だけは、魚を殺すのは止めてやれ。宗教を持ちましたら、それだけの同情と慈悲心が湧いてくるそれが知恵やの。
清水寺前貫主 大西良慶和上百七歳 法話より
明日は彼岸の中日。お墓参りしましょう。
本日のご来店心よりお待ちいたしております。
合掌
令和六年九月二十一日